。(ピリオド)は他人が打てるものではない

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ここ数カ月、平日のスキマ時間に本を読んでいる。

 

朝の通勤時間の電車内。
お昼ご飯を食べて、余った残りの10数分。
子どもを寝かしつけて、就寝するまでの30分。

 

「そのスキマにブログが書けるやろが」と思う人もいるかもしれないが、日中はPC画面を目の前に目と指先を酷使しながら、足りない知恵をフル回転させて働いているため、自分の言葉を紡ぐリソースを割くことができない。


これはわたしの体力と気力の問題である。いやはや情けない。

 

とはいえ、ただ時間を意味もなく溶かすのは嫌だという気持ちから、本を読み始めた。

 

本は良い。


己のペースでブルーライトを浴びずに、筆者の考えに触れることができる。

「いいな」と思うものは、何度も読み返せるし、「この主張は嫌いだ」と思ったら飛ばすことも容易にできる。

 

本のジャンルは多岐にわたり、その時々気になったものを読むようにしているのだが、たまたま図書館で出会った本が、今のわたしにドンピシャだった。

 

 

決定権は常に己の手のひらにある

一体いつから自我は芽生えるのか。


人によっては異なるとは思うが、わが最愛の娘・ローラ(源氏名)は、バリバリの自我をもって主張している。

 

まだ人生2年目の赤子のため、最終的な決定権を彼女は持ち合わせていない。


それでも「今日はどれしゅ(=ワンピース)が着たい」「ママ、一緒に踊りましょ!」など自分の力強く伝えてくる。

 


2歳の赤子ですら「決める」をしてくるということは、自我が生まれた瞬間から死を迎える直前まで、我々は大抵のことを自分の意志で決めることができるというわけだ。

 

「◎◎を諦める」と決めるのも、結局自分自身だけれども

何かを決めるということは、大人になるにつれて段々と慎重になる行為でもあると思う。


年を重ねれば重ねるほど、自分の置かれた環境や立場が嫌でも見えるようになってきて、簡単にできていた判断が難しくなる。

 

親や周りの大人が守ってきてくれていた時代(=未成年)から、独り立ち(=成人)。
人によっては、結婚をして子供ができ、自分が親になり子を守る立場にもなり。

 

 

ステージが大きく変わるタイミングはもちろん、一段変わったステージの中でも、日々決めることばかりだ。

 

「結婚したから」「母になったから」という言葉は、物事を諦めさせることを容易にする言葉だなと、自分がその立場になって思う。


本当は興味があるのに、「◎◎だから」とそれっぽい理由をつけて、諦める。

 

決めているのは自分なのに、「仕方なく選ばされた」ような気持ちに勝手になって傷つくのだ。
小さな「◎◎だから」の積み重さねをしているのも自分だというのに。

 

「。(ピリオド)」を打たず「…(点々々)」を続けていく

本書の中にこんな文章がある。

 

新しい文の最後に大きなピリオドを打ち込みたい、とつい思ってしまうかもしれない。
そうすれば、動き続け、闘い続け、努力し続け、挑戦し続ける必要がなくなるから。(中略)
そうではなくて、点々々(…)を書き足して、選択肢をつぶさずいたら、どうなるんだろう?
いつもの動きを淡々とゆっくりこなしていけば、力が生まれる。
ストーリーを紡ぎ続ければ、力が生まれるのだ。
(P31より抜粋)

 

この文章を読んだとき、半分目から鱗、半分「だよね」の気持ちになった。

 

例えば、「わたしは母親だから、◎◎と向き合う時間がない」と諦めたらそこで試合は終了で、プラスの加点は見込めない。


だけど、「ちょっと待って!アディショナル!アディショナルタイムください!」と、他人から見たら不格好でもあがけば、ほんの僅かでも可能性は残った状態になる。

 

心のどこかで「そうあってほしい」と思っていたことが、明文化されていて「変な感覚ではなかったのだなあ」と、ホッとした自分がいた。

 

 

「…(点々々)」で、いつかの未来、バタフライエフェクトを起こすかも

「◎◎だから」と理由をつけて、いろいろなことに「。(ピリオド)」を打ってきたわたしである。


とはいえ思い返せば、無意識下のうちに「…(点々々)」をしていた時期もあった。気がする。

 

 

「…(点々々)」の小さな積み重ねが、いつか思いもよらない景色につながっていくかもしれない。


ほんの少しずつでも、自分の物語を続けていくことで、未来のどこかで「あの日の選択」に意味が生まれる瞬間がくるかもだ。

 

だから今日も、自分のペースで、静かに、日々を紡いでいこう。